統合と分裂の時代 750年、アッバース革命でウマイヤ朝が倒れる(アッバース朝の始まり)。 751年、アッバース朝と唐の間でタラス河畔の戦い。唐の勢力がタリム盆地まで後退。 756年、イベリア半島南部に逃亡したウマイヤ系勢力が後ウマイヤ朝を興す。 756年、アッバース朝が、安史の乱の最中であった唐に援軍を送り、一部が駐留軍として残る。 768年、カール1世がフランク王に即位。急速に勢力を拡大し、カロリング朝フランク王国が覇権国家となる。カールはドイツ語読みで、フランス語読みだとシャルル、英語読みだとチャールズ、ラテン語読みだとカルロス。 799年、カール1世がヴィルヘルム家をオストマルク東方辺境伯に叙する。 800年、カール1世がローマ法王の承認を得て、ローマ皇帝として戴冠。建前上は東ローマ皇帝コンスタンティノス6世の後継を主張。 812年、東ローマ皇帝ミカエル1世が、カール1世をフランク皇帝として承認。便宜上、以下ローマ皇帝ではなくフランク皇帝と表記する。 813年、カール1世の子ルートヴィヒ1世が共同皇帝となる。 814年、カール大帝が死去。フランク族には分割相続の伝統があったが、存命の相続人がルートヴィヒ1世のみだったため、単独の皇帝となった。 830年ごろ、ルーシ(キエフ大公国)による東ローマへの侵入が本格化し始める。 840年、ルートヴィヒ1世が、相続人たちの後継争いの最中に急死する。以後フランク王国は分裂と統合を経て、西フランク王国、東フランク王国、イタリア王国に三分される。 9世紀後半、アッバース朝が衰退し、地方政権の独立が顕著になる。 865年ごろ、ノルウェー国王ハーラル1世が即位し、ノルウェーが統一される。 867年、バシレイオス1世がクーデターを起こし、東ローマ皇帝となる(マケドニア王朝の始まり)。以下便宜上、東ローマ帝国ではなくビザンツ帝国と表記する。 907年、キエフ大公オレグがビザンツ帝国を襲撃。 907年、唐が滅亡し中国の情勢が混乱を深める。 909年、アッバース朝に対抗するシーア派勢力が、北アフリカのイフリーキヤでファーティマ朝を興す。 924年、フランク皇帝ベレンガーリオ1世が暗殺され、空位となる。 929年、後ウマイヤ朝アブド・アッラフマーン3世がカリフを宣言する。 939年、ベトナムで呉朝が成立し中国の支配から独立する。 960年、北宋の成立。 962年、ザクセン朝東フランク王オットー1世(951年からイタリア王オットーネ1世を兼ねる)が、フランク皇帝となる。以下東フランク王国やフランク皇帝でなく、神聖ローマ帝国や神聖ローマ皇帝と表記する。 969年、ファーティマ朝がエジプトを征服。地中海南岸から紅海沿岸までを支配下に置く。 976年、オストマルク東方辺境伯家が衰退、バーベンベルク家が取って代わりオーストリア辺境伯となる。 987年、西フランク王ルイ5世が世継なく死去し、パリ伯ユーグ・カペーが王に選任される(カペー朝の始まり)。以後西フランク王国ではなくフランス王国と表記する。 1000年、ハンガリー公イシュトヴァーンがローマ法王の承認を得てハンガリー王イシュトヴァーン1世となる。ハンガリー王国の成立。 1000年、ポーランド公ボレスワフがビザンツ皇帝オットー3世の承認を得、ポーランド王ボレスワフ1世となる(1025年にローマ法王が追認)。 1018年、ビザンツ帝国が第一次ブルガリア帝国を倒し併合する。 1028年、イェリング朝デンマークのクヌーズ2世(先立つ1016年からイングランド王クヌート1世を兼ねる)がノルウェー王クヌーズとして即位する(北海帝国の成立)。 1010から1020年ごろ、ハプスブルク伯ラートボトがハプスブルク城を建設する。 1031年、内紛を繰り返していた後ウマイヤ朝が崩壊。イスラム系の群小王朝(タイファ)が割拠する。 1037または1038年、テュルク系のイスラム勢力がセルジューク朝を興す。1037年はトゥグリル・ベグとチャグリー・ベグの兄弟が建国した年、1038年はニーシャプール(現在のイラン北東部)が無血開城しセルジューク朝の首都になった年。 1054年、大シスマ。ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が互いを破門し、キリスト教会が東西に分裂した。 1055年、セルジューク朝の勢力がバグダードに入城。トゥグリル・ベグはアッバース朝カリフの庇護者としてスルタンの称号を得る。後世からは、セルジューク系の地方政権と区別する上で大セルジューク朝と呼ばれる。 1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドを征服し、イングランド王ウィリアム1世に即位する。いわゆるノルマン・コンクエスト。 *北欧では800~1050年ごろがヴァイキング時代と呼ばれ、その後定住が進みノルマン人と呼ばれるようになる。イスラム勢力は、バグダードのアッバース朝、マフディーアのファーティマ朝、コルドバの後ウマイヤ朝と3人のカリフが並び立つことになったが、後ウマイヤ朝は短命に終わり、イベリア半島北部からのレコンキスタに押されていく。このときキリスト教勢力の側も入り乱れており、最終的にスペインとポルトガルが存続する。