イギリス エリザベス朝時代の文学を読むうえで知っておいた方がよさそうな事項を角括弧で示した 43年、ローマ帝国がケルト人を征服し、属州ブリタンニアとする。 407年、ローマ皇帝コンスタンティヌス3世がブリタンニアを放棄。 5世紀ごろ、アングル人・サクソン人・ジュート人らの進入が本格化する。 8世紀ごろ、デーン人の進入が本格化する。 886年、アルフレッド大王(アングロサクソン七王国のひとつウェセックス家)がデーン人からロンドンを奪回する。 1013年、イェリング朝デンマークのスヴェン1世がイングランド王になる(デーン朝の始まり)。 1014年、スヴェン1世が急死。支配地域が混乱するが、最終的には子のクヌート大王が、兄弟の支配地や父がいったん手放した領地なども征服して、北海帝国を築く。 1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド王ウィリアム1世になる(ノルマン朝の始まり、ノルマンコンクエスト)。 1150年、フランスでアンジュー伯アンリがノルマンディー公を継承。 1154年、アンリがイングランド王ヘンリー2世になる(アンジュー朝の始まり)。 1215年、前年のブーヴィーヌの戦いで大陸の領土を失ったイングランド王ジョンが、マグナ・カルタ(自由大憲章)を承認する。 1295年、スコットランドとフランスが同盟を結び、1560年まで継続される。 1337~1453年、百年戦争。イングランドの支配者であるノルマンディ公と、ヴァロワ朝フランスの間で起こった、カペー朝の後継争いに端を発する、フランス諸勢力の断続的な抗争。 [1400年代初頭~1600年代前半、大母音推移。英語の発音が大きく変わる。] 1455~1485年、薔薇戦争。エドワード3世の晩年くらいから始まった国内の動揺が、リチャード2世の幽閉とヘンリー4世による簒奪、ヘンリー5世の急死、ヘンリー6世の精神疾患などとあいまって、大規模な内戦に発展した。 1534年、イングランド王ヘンリー8世が首長令を発布、イングランド国教会がローマ教会から法的に独立する。 1585~1604年、英西戦争。1588年のアルマダ海戦などイングランド優位の局面もあったが結局痛み分け。 1603年、イングランド女王エリザベス1世に世継がなく、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世になる。 1642~1649年、清教徒革命。 [1642年、清教徒革命のあおりで劇場が閉鎖される。] 1688~1689年、名誉革命。 1645~1715年ごろ、マウンダー極小期。地球規模での寒冷化の引き金になったか。 1689年、オランダ総督ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世になる。 1689~1815年、第2次百年戦争。終結後イギリスは覇権国家としての全盛期を迎える。 1714年、イングランド・スコットランド女王(1707年の合併以降はグレートブリテン女王)アンに世継がなく、ハノーファー選帝侯ゲオルクがグレートブリテン王ジョージ1世になる。 1760~1830年ごろ、狭義の産業革命。 1800年、グレートブリテン王国とアイルランド王国が合併。 *王朝としては、ウェセックス家がデーン系の勢力と争っていた時代のあと、ノルマン朝が90年くらい続く。ヘンリー2世の家系はプランタジネット家と呼ばれるようになり、薔薇戦争を演じたランカスター家とヨーク家はどちらも、アンジュー朝エドワード3世の血統を主張した者が多い。内戦を収拾しテューダー朝を開いたヘンリー7世はランカスターの傍流ではあるが、ヘンリー4世の父ジョン・オブ・ゴーントから見ても4代離れており、プランタジネット系の王朝と見るにはいかにも遠い。テューダー朝が途絶すると、ジェームズ1世がヘンリー7世の血統を背景にステュアート朝を開く。これが現在まで続くというのがタテマエで、2013年に改正された「王位継承法」では、ジェームズ1世の孫でジョージ1世の母、ハノーファー選帝侯妃ゾフィー・フォン・デア・プファルツの子孫であることが、王位継承権を持つ条件のひとつになっている。