中国史の補足 四夷(しい) 中華王朝から見た異民族を東夷(とうい)、北狄(ほくてき)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)に分類したもの。夷は低地人の意とも言われ、その解釈によると黄河や長江の下流域で水利を中心とした生活をしていた人たちを指す。狄は易(とりかえる、物々交換する)に通じるらしく狩猟民を、戎は絨(羊毛)に通じるらしく遊牧民を指した。蛮は南方の農耕民の自称。おそらく、夏王朝は東夷、殷王朝は北狄の一派が主体(の少なくとも一部)を担っていた。 有名な異民族 山戎(さんじゅう):前663年に燕に侵攻、斉からの援軍である桓公に大敗した。 玁狁(けんいん):異綴りが多い。匈奴の母体となったか。 葷粥(くんいく):異綴りが多い。匈奴の母体となったか。 胡(こ):もとは漠然とモンゴル方面の異民族を指した。漢代に匈奴を指すことが増え、後にはソグド人(西胡)を指す言葉になった。 東胡(とうこ):烏桓と鮮卑、柔然・奚・契丹などの母体となったか。モンゴル系か。 粛慎(しゅくしん):挹婁・勿吉・靺鞨・女真などの母体となったか。ツングース系か。 月氏(げっし):東胡と並ぶ勢力だったが、前2世紀に当時小国だった匈奴に圧倒され、残党が大月氏と小月氏に分かれた。おそらくトカラ系かイラン系か。 征服王朝 中国史で征服王朝というと遼・金・元・清の4つだが、このうち遼は燕雲十六州(満州~内モンゴル付近)の地方政権に過ぎず、金も宋を南に追いやっただけなので、中国全土を支配したことがあるのは元と清のみになる。反対に漢族中心の国家は、漢(と魏晋)・明が代表で、秦・隋は多民族国家の性格が強い。唐・宋ははっきりしないところがあるものの、支配者層の主体は漢人系の(またはそのように名乗る)人たちだったのではないか。清の支配は同君連合的で、清朝の皇帝が満州のハン・モンゴルのハーン・旧明の天子・チベット仏教の最高施主・イスラムの保護者を兼ねる。もちろん、春秋・戦国・五胡十六国・南北朝・五代十国といった戦乱の時代には諸民族諸勢力が入り乱れていた。 五胡十六国時代(東晋十六国)に活躍した勢力 匈奴(きょうど):民族系統不明。夏王朝の一族である夏后淳維を祖先とするという伝説がある。前200年、白登山の戦いで前漢に大勝し、バイカル湖南の渾庾・屈射・丁令・鬲昆・薪犁なども服従させた。魏晋時代は中華王朝の統制下に置かれる時期が続き、支配民も一部が離反・独立した。後に盛り返し、291~306年の八王の乱に乗じ、304年に前趙を建てた。隋代の劉氏や独孤氏は、鮮卑に取り込まれた匈奴系の部族が元だという。フン族やエフタルとの繋がりも指摘されるが詳細不明。 鮮卑(せんぴ):匈奴に敗れた東胡が烏桓と鮮卑に分かれたともいう。モンゴル系か。匈奴や中華王朝などいろいろな勢力と、ついたり離れたりの関係を持った。一派の拓跋(たくばつ)氏が386年に北魏(元魏とも)を建てたことで、五胡十六国時代が終わり南北朝時代に移る。東部鮮卑の一派が契丹・奚・豆莫婁・室韋などの諸勢力に繋がったとされる。途中経過ははっきりしないが、後にバイカル湖畔で萌古国(モンゴル)を建てた蒙兀室韋(蒙瓦部とも)は室韋の一部族とみられる。 その他:羯(けつ)、南匈奴または小月氏と繋がりがあるか。氐(てい)、チベット系か。羌(きょう)、チベット~ビルマ系で、後のタングートの母体となったか。 テュルクの系譜 中国が五胡十六国時代にあった5世紀始め、鮮卑拓跋部に従属していた柔然という勢力が、後述の高車を服従させタリム盆地(現在の中国新疆ウイグル自治区北部、タクラマカン砂漠を中心とする地域)に勢力を築く。柔然に服従していた突厥という勢力が、5世紀末くらいから勢力を増し、552年に柔然を破って独立した。突厥の自称が「テュルク」で、この時点では民族的にモンゴロイドであったという。突厥は、おそらくフェニキア~アラム~シリア文字を源泉とする、突厥文字で記録を残した。 いっぽう4世紀末、中国の記録に、高車・鉄勒(テュルク)などと呼ばれるグループと、袁紇・回紇(ウイグル)などと呼ばれるグループが現れる。前者は丁零、後者は匈奴を祖とするという説もあるが詳細は不明、鉄勒の祖を匈奴する説もあるし、回紇は鉄勒の有力部族だとする説もある。どちらにせよ、突厥・鉄勒・回紇は民族的に近かったようで、突厥以外のテュルクを指して鉄勒と呼ぶこともある。 柔然から独立した突厥は勢力を広げ、周辺部族を服従させ一大勢力となるが、582年に東突厥と西突厥に分裂する。742~745年にかけてウイグル系の勢力が突厥系の諸勢力を破り、モンゴル高原に一大勢力を築いて、中国側からは回鶻と呼ばれた(ほかに、ウイグル帝国、ウイグル可汗国、トクズ・オグズ国などとも)。ウイグル帝国は、9世紀のなかばに天候不順と内乱により崩壊、モンゴル高原の支配者は黠戛斯(キルギス)>韃靼(タタル)>契丹(キタイ)と変遷し、やがて戦乱期に入る。 これと前後してテュルク諸部族は、移動や他民族との接触を繰り返した。西域ではイラン系やトカラ系の諸民族との同化が進み、口語はテュルク化、公文書はアラビア文字でペルシア語、宗教はイスラム化など、複雑な構成を取るようになる。もちろんこれは一例で、ユダヤ化したグループや仏教を重んじたグループもある。セルジューク朝の始祖とされるセルジュークは、カスピ海東岸に定着していたテュルク系のオグズ族出身だという。 テュルク系諸勢力の多くは、モンゴル帝国の拡大により征服された。 中国の記録に残っている日本 107年、帥升が後漢に朝貢。読みが「すいしょう」と「ししょう」のどちらに近かったのかはっきりせず、名前なのか役職なのかもわかっていない。漢委奴國王印は帥升が持ち帰った物か。後漢書東夷伝、同安帝紀。 238年あるいは239年、卑弥呼の使者が三国時代の魏に朝献して親魏倭王の印綬を受けた。魏志倭人伝。 413~502年、倭の五王が六朝(三国時代の呉~南北朝時代の陳までの、南京周辺の政権)に朝献。五王は讃・珍・済・興・武の5人で、最初の讃についてははっきりしないものの、2番目の珍~5番目の武は反正~雄略天皇に相当するという説が有力。武は「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」となったが、百済に関する権限は認められなかった。宋書、梁書、南史など。 600年、隋書東夷傳俀國傳に遣隋使が到着したという記録が残るが、日本書紀には言及がない。おそらく成果に乏しかったのだと思われ、冠位十二階や十七条憲法の制定など国内改革を進めたうえで、607年に改めて遣隋使を派遣する。 663年、白村江の戦い。唐書など。 儒家と法家と道家 秦の始皇帝は法家を重用し、前213年に挟書律を定めて焚書を、翌前212年に咸陽で坑儒を行った。挟書律は前漢の2代恵帝の治世(前191年)に廃止される。その後隆盛となったのは黄老思想で、文景の治(前180~前141年)の基盤となった。儒教は秦~前漢初の焚書期にも途絶せず、五経博士の設置(前136年)を経て後漢初にはいわゆる国教化を成した。魏晋時代から南北朝時代にかけての混乱を経て、隋唐期には儒教・仏教・道教が並び立つ三教鼎立時代を迎え、宋学(二程子の道学から朱熹の朱子学を生んだ)の基盤となった。朱子学は元代に科挙に取り入れられ、明代の陽明学と合わせて宋明理学の代表と目されるようになる。 仏教 中国への仏教伝来は1世紀ごろとされ、部派仏教(上座部仏教)と大乗仏教(北伝仏教)がだいたい同時期くらいに伝来したという。4世紀ごろ、羯系の後趙に入った仏図澄(ぶっとちょう)や羌系の後秦に入った鳩摩羅什(くまらじゅう)など西域からの渡来僧、釈道安(しゃく どうあん)や竺僧朗(じく そうろう)などその弟子らが、大規模な仏教改革を行う。南北朝時代は南朝でも北朝でも信仰されたが、北魏の太武帝が仏教勢力と対立したほか、北周の武帝は仏教と道教をともに弾圧した。唐の武宗によるもの(会昌の廃仏)と後周の世宗によるものと合わせて、三武一宗の法難と呼ばれる。宋の太祖が仏教の管理を制度化し、統制下に置いた。元代にはチベット仏教が重んじられたが、明代以降はそれまでのような影響力を失っていった。日本では522年に渡来したとされる司馬達等(しばのたちと)らが下地を作り、538年あるいは552年には百済から正式に仏教が伝わった。