紙と鉛筆
2022.03.27
大学院入試くらいになると辞書や関数電卓の利用が許可されることもありますが、たいていの試験で受験生が使える道具は、紙と鉛筆だけです。この「唯一の武器」をいかに使いこなすかということに、もっと注意を払って欲しいと常々感じています。

まなびやの授業はホワイトボードへの板書を中心にしていますので、ほとんどの生徒は「書いてもらえばわかる」ことを実感してくれているだろうと思います。しかしそこから「自分で書いて解く」までの道筋をつけるのは、とてつもなく大変です。私は「力押し」の勉強法をできるだけ避けたいと考えていますが、この基礎技術だけは、習慣と積み重ね以外で上達することができません。もちろん「こうやって書くと話を整理しやすい」とか「こういうことに気をつけながら書くと効率がよい」といったテクニックは伝えられますが、たとえば野球の練習をするときの素振りのように、楽器を練習するときのスケール往復やロングトーンのように、いくら教わっても自分で練習しなければ力にならない技術です。

例に挙げた楽器と野球に限らずどんな分野でも、堅実で質の高い基礎技術を身に付けられるのは、自分で試して間違えて修正しながら練習を重ねた人だけです。これは生徒に向けて言っているのではなく、教える側や、もしかしたら「勉強させたい」親の立場でも、重要なヒントになってくれる考えではないかと思います。
学校を選ぶ手がかり
2022.01.14
いつも教室で言っていることですが、社会の情報化が進めば進むほど、有害な情報や有用でない情報の「比率」は上がっていきます。しかしその一方で、有用な情報の量と質も、着実に向上しています。乱暴に言えば「探しさえすれば情報はちゃんとある」時代にかなり近付いたということです。

前置きはこのくらいにして、とくに高校生が進学先を選ぶときに、役に立つかもしれないアイディアを紹介します。正式な名称ではありませんが、ネットで「優秀卒論」というキーワードを検索してみてください。かなりの数がヒットすると思います。具体的な志望校候補があるなら「大学名 卒論」などと検索してみてもよいでしょう。

論文なんて読んでも、学問的な内容は理解できないかもしれませんが、目的はそこではありません。わざわざ公開されている「優秀」卒論というのは、卒業までにこういうことができるようになって欲しい、また実際にできるようになった生徒がいる、という学校からのメッセージだと理解できます。

一昔前は、入試問題こそが「どんな生徒に来て欲しいのか」という学校のメッセージでした。卒論の公開が広まったおかげで、新しい判断材料が増えたのだといえます。ぜひ、活用してみてください。選抜に論文や作文が必要な場合にも、参考情報として役立つでしょう。

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進路とデータ
自前の目標
2021.11.28
「わかった気」になってもらっては困るし「できるつもり」になっては本人が損をする、その一方である程度の「達成感」がないと根気が続かなくなる、という板挟みは、学習塾に限らず何かを「教える」職業に共通の悩みではないかと思います。そういうとき、最大の助けになるのはやはり、本人に具体的な目標があることに違いありません。

たとえば学科の勉強なら、入学試験に合格したい、学校の授業に追いつきたい、部活の練習に使える時間を増やしたい、といった目標があれば、そのためにはこうすれば効率がよい、という方法を提示できますし、目標をクリアすることで達成感を得つつ、けれども学ぶべきことはまだまだあるのだということを、自然に受け入れる土台になってくれます。

ではそういう目標を「自前で」持てるようになるためには何が必要か、というのは恐るべき難問です。もしかすると誰にも答えが出せないのかもしれませんが、しかし、そういう難問が切実に存在する、ということに向けられる注意が少しでも増えたなら、いくらかの足しにはなるのではないかと、私は期待しています。
読書感想文は怖くない 後編
2021.11.04
前編からの続きです。

たとえば物語を読むとき、小さな子供は登場人物と自分を区別しないのが普通です。それどころか、3歳くらいまでの子供だと、見聞きしたことが「誰の」経験かという発想自体が希薄です。専門的な説明は下の外部リンクに譲りますが、発達心理学では「心の理論」と呼ばれます。私の考えでは、この受け取り方は単に未熟なやり方ではなく、物語を読む上でたいへん重要です。物語のもっとも感動的な、美しい、あるいは恐ろしい場面を読むとき、私たちはそれが誰の経験であるかを忘れます。文学作品を鑑賞するときには欠かせない受け取り方ですが、ここでは、私たちの中にそういう混同の性質があるということだけ確認しておきましょう。出発点が「混同」であったからには、年齢相応の読み方というのは「区別」の度合いによると考えるのが自然です。

区別をアピールするいちばん初歩的な方法は「自分なら」という表現を使うことです。物語を読んで「自分なら~~」と言えるということは、自分と登場人物は別人だと意識している、区別ができているということを示します。さらに、では登場人物と自分はどこが違うのか、なぜ違うのか、いつでも違うのか、ということに注意して読んだ、とアピールします。もしできれば「自分なら」だけでなく他の人、たとえば「弟なら」「おばあちゃんなら」「別の登場人物なら」と置き換える相手を変えてみるとか、置き換える方向を変えて「この登場人物が自分なら」としてみるとか、そういう工夫があるともっとよいでしょう。区別とは反対に、どこが同じかに注目するのも有効です。この登場人物のこういうところは誰々と似ている、この行動は(場面は違うけれど)実生活のこういう行動と同じだ、といったことに注目します。

小学校の読書感想文なら、上に挙げたくらいで満点近いアピールになるでしょうが、中学生の場合はもうひと頑張り欲しいところです。どこで頑張るのかというと、より多くの情報を「書いてあることの中から」引き出すという点です。よくある誤解で「登場人物の気持ちを答えなさい」という質問を「予想の問題」だと思い違いしている生徒がいますが、そうではなく、行動の理由や解釈に関わることが別の場所に書いてあるから、それを探して答えなさいという趣旨の質問です。「書いてあることと書いていないことの区別」と言い換えてもよいでしょう。つまり、他の所にこう書いてあったからこの登場人物はこう考えているのだとわかる、という話と、どこにも書いてはいないけれど自分はこうだろうと思った、という話の区別をはっきり示すことが大切です。もしできれば「この本が書かれた頃にこういう事情があったから」「この本が書かれた国にこういう習慣があったから」など、書いてあることでも自分の判断でもなく別の勉強の成果から、何か付け足しができれば言うことがありません。

高校生になれば読書感想文が課題になることも減るでしょうが、課題文付きの小論文などでも考え方はそう変わりません。点数を取るために重要なのは「書き言葉を正しく使える」「課題文をちゃんと理解した」「それらをアピールしながら書ける」ということであって、書いた内容自体に点数がつくことはまずありません。もし物語を読む機会があったら、視点の切り替えを試してみるとよいでしょう。ひとつの出来事でも、見る人によって「意味」や「解釈」が異なります。この登場人物にとってはこういう出来事であったけれど、あの登場人物から見るとこういう出来事であっただろう、といった考え方ができることは、文学作品を読むときに有用なだけでなく、普通の生活の中でも重要な能力です。

-参考外部リンク-
心の理論@脳科学辞典
読書感想文は怖くない 前編
2021.11.04
みんなが大嫌いな読書感想文ですが、仕組みさえわかっていれば恐れるようなものではありません。まず真っ先に知って欲しいのは「感想自体に点数を付けられるわけではない」ということです。感想に優劣があって「あなたの感想は何点」と評価を下すなどということは、いわゆる権威主義とか全体主義といった体制の国にはそういうことをしている所があるのかも知れませんが、普通の国の普通の教育機関がやるようなことではありません。だから「いい感想が書けないんじゃないか」という不安は最初から的外れなもので、捨ててしまってよいのです。

では何を評価するのかというと、まずは「提出する」ことです。これは当然のようですが、決められた日までに決められた形式で出すということは、誰でも簡単にできるほどやさしくはありません。残念ながら大学生になっても、提出物さえしっかり出していれば誰でも合格をもらえる授業で、単位を落とす人はいなくなりません。次に大切なのは「ちゃんと読んだ」かどうかです。もちろん家まで付いて行って読んでいる現場を確認するわけではないので、いかにも「ロクに読んでいない」感じの内容になっていなければそれで十分です。わざわざこの2つを書いたのは「最初のハードルは低い」のだということを、知って欲しいからです。

では読んで書いて出せばいいのかというと、それだけで「赤くない点数」をくれる先生もいるかもしれませんが、日本語の質に気をつけると、高い点数を取りやすくなります。中学生なら、習った漢字を正しく使って、意味が通じないところができないように注意して書けば、そこそこの評価はもらえるはずです。提出日よりも早めに書き上げて、1日以上寝かせてから見直しをすると、効率よく修正できます。高校生は「正しい書き言葉」が目標です。以前紹介したやさしく語る小論文くらいの内容を押さえておけば、困ることはないでしょう。

さてしかし、点数に結び付きにくいとはいっても、せっかく書くのだから中身もある方がいいに決まっています。ただし「本当に中身のある自分独自の意見」なんてものが必要だと考えてはいけません。修士論文(一般に大学院の2年生が卒業のために書く)にさえ、そんなものは求められません。では何が必要なのかというと、本を「読んでどう考えたのか」よりも先に、まずは「どう読んだのか」です。年齢相応の「読み方」というのがあって、それができていることをアピールすればよいのです。そのときに、何が「同じ」で何が「違う」か、どこが「似て」いてどこが「似ていない」か、という意識が大切になります。

後編に続きます。
なぜどのように「わからなく」なるか 後編
2021.10.09
前編からの続きです。

ここで苦労する生徒は、大きく2パターンに分かれます。いっぽうは、教室でやり方を習ったときには問題が解けたのに、しばらく後で同じ質問をするとまた同じところで止まってしまうタイプです。こういう生徒は、決してやる気がないわけでも記憶力が悪いわけでもなく、自分の担当範囲が「計算作業だけ」だと信じ切っている場合がほとんどです。先生に「こうやって解きなさい」と指示されるのを、当然のことのように待っています。この誤解を解くのは大変で、本人が「自分は正当に努力しているのに不当な要求をされている」と感じてしまわないよう、十分配慮しなければなりません。

もうひとつ注意が必要なのは、この「指示待ち」姿勢が単純に悪いものではなく、指示を待てるというのはひとつの能力だということです。問題は、普通の生活の中で「待つ」と「待たない」の両方がある程度は求められ、たいていはその使い分けを自分でやる必要があることです。たとえば仕事をするにしても、どんなときも指示されたこと以外絶対してはならないというのは、よほどの危険を伴う業務に限られるでしょうが、いつでも指示を待たずに行動できるのがよいという職種も多くはないでしょう。その判断をするために、両方に習熟してメリットとデメリットを比較できれば理想的ですが、少なくとも両方を経験しておく必要はあるでしょう。本格的に「数学を使う」仕事に就く人はごく少数なのに、中学校で全員が数学を習うのは、こういう問題となるべく早い時期に向き合っておくためでもあります。

もういっぽうは後戻りができないタイプで、算数の練習量が多かった生徒に多く見受けられます。中学入学くらいまでの成績は優秀で、解き方を自分で探ろうとする意識も持っていることがほとんどですが、いったん自分が「心地よい」やり方を発見すると、見直したり修正したりといったことができなくなりがちです。より効率のよいやり方を教わっても、理屈をつけて自分のやり方を守ろうとします。この「理屈をつける」部分が素直に丁寧に行われる分には、よく考えて納得してからやり方を変えるという美徳になりますが、どう考えても今までのやり方では不足なようだと知ってなお後戻りができないときには、勉強や努力自体に否定的な態度になってしまうこともあります。

専門的にどのように評価されているのか知りませんが私の経験上、成績に響いてくるようになるタイミングに性差があり、男子生徒では中学3年から高校1年くらい、女子生徒では高校2年から3年くらいが典型的です。出口となる考え方には2面あり、学習に限らず生活全般で「心地よさ」を過剰に求めないで済むような配慮と、年齢相応に「どう理屈をつけても現実になんとかする以外ない問題」に向き合うような促しが、どちらも重要です。余談ながら、私が通っていた当時の予備校はまさに後者の一本槍で、冷徹に「今年が去年と同じなら、来年も今年と同じだよ」と言われて大きく伸びた生徒も、挫けてしまった生徒も、両方たくさんいました。私自身は「今やりたくないことがあるなら、やってもいいなと思うことを先にやって、少し経験を積んでから考えた方が得だろう」という考えで、本人に強い希望がある場合を除き、本当に難しいことは先送りと再挑戦を繰り返すよう心がけています。
なぜどのように「わからなく」なるか 前編
2021.10.09
まなびやでは、たとえ受験科目に数学がない大学受験生であっても、時間が許せば最初に数学の授業をしている、という話を以前少し書きました。その中でもとくに重要なのがこれです。

問題自体は、中学生でもほとんどの生徒が解けます。

しかし大切なのは、生徒の頭の中で問題がどう扱われたかです。素朴に「aが2つとaが3つだから、合わせるとaは5つ」と考えても正しい答えが出ます。

この理解は便利なようですが、実は大きな落とし穴があります。

たとえばこの問題が解けません。分数くらいなら頭の中で解決できる力自慢がいるかもしれませんが、π(円周率)やe(ネイピア数)のような無理数だとか、単に文字でxとかyとか言われた場合には対応できなくなります。

より使い回しが広い理解は、たとえばこのようなものです。

微積分が登場するまでの間は「掛け算は面積、面積は掛け算」だけで押し切れるので、いわゆる「同類項」は「高さが同じだから横に並べられる長方形」と同義だと見て大丈夫です。

これさえ覚えて帰ればいいだけなので、何の問題もないように見えます。しかし実際は、一筋縄ではありません。後編に続きます。
公立大学校
2021.09.11
北海道には、北海道職業能力開発大学校北海道立農業大学校国立小樽海上技術短期大学校という「公立大学校」があります。制度の詳しい説明はリンク先に譲り省きますが、大枠では「高校を卒業した後で職業的な技能を習う学校」のことで、取得できる学位は学校により異なります。

これとは別に、高校卒業者は国立専門高等学校4年への編入制度もあり、実施状況は学校によりマチマチのようですが、調べてみたところ旭川高専が令和四年度の募集要項を公開していました。

職業志向の進路としてこういう選択肢もある、という認知度がまだそれほど高くないのかなと感じる機会があったので、紹介してみました。
進路とデータ2
2021.07.03
前回は生徒向けのデータを紹介しましたが、今回は保護者向けのデータを紹介します。この手のデータをご自分で探す際に注意して欲しいのは、データの出所です。もちろん、民間組織が公開しているデータにも有用なものはありますし、見やすさやわかりやすさの点で優れている二次資料もありますが、入手が可能なのであれば、できる限り公的機関が作成した一次資料も確認するべきです。情報に振り回されないための第一歩は、面倒さと付き合うことです。

生徒が自主的に情報を集めることの重要性は前回述べましたが、集めた情報が正しく有用なものばかりであるとは限りません。立てた計画にもどこかしら無理があるでしょう。大人のサポートが必要な範囲は生徒によりさまざまで程度も異なりますが、重要さの割に本人が気付きにくいのが「中途退学者の割合」です。この数字が教育の質に直結するわけではありませんが、あまりに高すぎないことを求めるのは当然でしょう。学校と名前がつくすべての組織に公開を義務付けるべきだと思うのですが、アドミッションポリシーだのディプロマポリシーだのの公開は進んでも、こういう本当に重要な情報がなかなか流通しないのはもどかしい限りです。私の主義主張はさておき、では「あまりに高すぎる」ラインはどこに設定すべきか、と考えるにはベースになる数字がなくてはなりません。

ということで、中途退学者に関する公的な統計を紹介しましょう。これが実に乏しく、文部科学省が平成26年に発表した報道資料学生の中途退学や休学等の状況について4ページに
平成24年度の中途退学者数は、全体で79,311人、設置者別でみると国立大学10,467人、公立大学2,373人、私立65,066人、高等専門学校1,405人となっている。
(略)
年間の中退率は2.65%(平成19年度は2.41%)中退者数(79,311人)を、全学生数(中退者、休学者を含む)(2,991,573人)で除した数
とあるものの、内訳がわからず根拠となった数字へのリンクもない酷い資料です。辛うじて探し当てた大学における授業料滞納・中途退学・休学の状況という資料の2ページ(元資料の176ページ)にある「前回文科省調査」というのが同じ年度で同じ値、「今回調査」にあたる26年度調査で2.12%になっていました。内訳は8ページ(元資料の182ページ)「表8大学・大学院における中退率(昼間部)」にあり、大学1~4年生(学部)の平均中退率は、国立大学で1.20%、公立大学で1.23%、私立大学で2.88%、大学全体で2.41%となっています。このほか、読売新聞教育ネットワーク事務局が中央公論新社から「大学の実力」という本を出版しており、また新型コロナウイルス感染症の拡大後に大学の中退率が下がったというニュースも流れました。

専門学校のデータはさらに入手が困難ですが、公益社団法人東京都専修学校各種学校協会専修学校各種学校 調査統計資料というデータを公表しています。たいへんきめ細かいデータで、調査方法も明示されており、すばらしい活動ではあるのですが、調査範囲が東京都のみで、調査回答率も6割くらいのものが多いことには注意が必要です。自然に想定できるデータの偏り(バイアス)として、状況の悪い学校の方が回答率が低そうだというのは、当然想定しておくべきでしょう。中退率の数字は34ページ以降で、多岐に渡っているため「中途退学者数C」で本文を検索して確認するとよいでしょう。専門課程(いわゆる「専門学校」)の総計で7.5%となっていますが、分野ごとのばらつきが非常に大きい特徴があります。

上で挙げた中退率はどれも年度あたりの数字で、全校生徒のうち毎年これだけの割合が中途退学している、という意味です。当然、履修年数が長ければ、割合が同じであっても中途退学する人数は多くなります。また単に「中途退学」とはいっても、たとえば在学中に自分で始めた商売が軌道に乗ったとか、卒業前にスカウトされて就職したとかいった人もいるでしょうし、そういう人の割合は分野ごと学校ごとに異なるでしょうから、数字を短絡的に良し悪しに結び付けるのは危険です。あくまで、本人が卒業に自信を持てる数字かどうか、似たような分野の学校の中で飛び抜けて悪い数字でないか、といったことが重要です。中途退学率を積極的に公開している学校はほとんどありませんが、生徒に適切な教育を提供する努力をしているなら必ず把握しているはずの数字です。なお比較の参考として、文部科学省が公開している高校生の不登校・中途退学の現状等3ページ(元資料の4ページ)によると、平成22年の高校の中退率は1.64%となっています。

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前の回
進路とデータ1
2021.06.30
学習塾本来の業務ではないのですが、生徒の進路について相談を受けることはよくあります。もちろん、私は学習塾の経営を商売としていて、勉強したい生徒が多ければ多いほど儲かるわけですから、進学希望者が増えて欲しいという願いはどうしてもあります。進路相談の際には必ず最初にそのことをお伝えしますし、この記事の読者にも、しっかり認識して頂きたいと思います。

前置きはそのくらいにして本題に入りましょう。現代は「情報化社会」と言われますから、情報を集める力、集めた情報を使う力はたいへん重要です。この力を鍛えるのにもっとも有効な機会は、進路の検討ではないかと思っています。高校生から進路の相談があったとき、私はいつも「まず自分で情報を集めよう」ということを話します。本当は中学生にもそうして欲しいのですが、少なくとも高校生には、これから「勉強をさせてもらおう」というときに、その成果をどう活用するつもりで、保護者にどれだけの負担が生じそうなのか、たとえ上手くできなくとも説明する努力を経験して欲しい、というのが私の考えです。またもし「本人の意思」を尊重するというなら、意思決定のための情報がなくては話が始まりません。

というところまでが理想論ですが、実際には、必要な情報を集めて、評価して、意思決定して、現実的なプランを考え、保護者の同意を得るところまで自力で頑張れる高校生はほとんどいません。戸惑っている高校生に「本当は高校受験を考えるときに知っておかなければならなかったデータだよ」と示しているのが、大学進学率と学歴別賃金のデータです。

文部科学省が公開している専門高校の現状(専門高校に関する諸データ)を見ると、ここ10年くらいの高校の生徒数として、職業学科が18~20%くらい、普通科とその他専門学科を足して75%ちょっと、平成6年度に新しくできた総合学科が5%ちょっと、という比率になっています。大学進学率は普通科で60%ちょっと、職業学科で20%ちょっとの数字が10年くらい続いています。数字には現れていませんがおそらく、職業学科からの大学進学の多くを推薦入学が占めるでしょう。

進学と就職のどちらがよいかは人によって異なるでしょうが、多くの人が関心を持っているであろう賃金について、厚生労働省が賃金構造基本統計調査というデータを公開しており、令和元年の「学歴別」というデータにはこうあります。
学歴別に賃金をみると、男性では、大学・大学院卒が400.5千円(前年比0.0%)、高専・短大卒が314.9千円(同0.4%増)、高校卒が292.9千円(同0.4%増)となっています。女性では、大学・大学院卒が296.4千円(同2.2%増)、高専・短大卒が260.6千円(同0.9%増)、高校卒が214.6千円(同0.8%増)です。
賃金は地域によっても違い、令和元年の「都道府県別」データによると、全国計307,700円に対して、北海道は280,800円、東京都が379,000円になっています。

もちろんこれらは、特定の個人の将来を予言するような数字ではありません。あくまで「過去」の「他人」の「平均」に過ぎません。しかし知らないよりは知っていた方がよいでしょうし、簡単に入手できるデータです。データに振り回されるのはバカバカしいことですが、データを活用できないことは明らかな損です。4月21日の記事で「自分の尺度を手放すことも貼り付けることもせず」と書きましたが、こういうバランス感覚は常に必要なものです。データの扱い方も同じで、数字を見ただけで何かがわかったような気になっては間違いの元ですが、調べられる数字は調べておくに越したことがありません。

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