自前の目標
2021.11.28
「わかった気」になってもらっては困るし「できるつもり」になっては本人が損をする、その一方である程度の「達成感」がないと根気が続かなくなる、という板挟みは、学習塾に限らず何かを「教える」職業に共通の悩みではないかと思います。そういうとき、最大の助けになるのはやはり、本人に具体的な目標があることに違いありません。
たとえば学科の勉強なら、入学試験に合格したい、学校の授業に追いつきたい、部活の練習に使える時間を増やしたい、といった目標があれば、そのためにはこうすれば効率がよい、という方法を提示できますし、目標をクリアすることで達成感を得つつ、けれども学ぶべきことはまだまだあるのだということを、自然に受け入れる土台になってくれます。
ではそういう目標を「自前で」持てるようになるためには何が必要か、というのは恐るべき難問です。もしかすると誰にも答えが出せないのかもしれませんが、しかし、そういう難問が切実に存在する、ということに向けられる注意が少しでも増えたなら、いくらかの足しにはなるのではないかと、私は期待しています。
たとえば学科の勉強なら、入学試験に合格したい、学校の授業に追いつきたい、部活の練習に使える時間を増やしたい、といった目標があれば、そのためにはこうすれば効率がよい、という方法を提示できますし、目標をクリアすることで達成感を得つつ、けれども学ぶべきことはまだまだあるのだということを、自然に受け入れる土台になってくれます。
ではそういう目標を「自前で」持てるようになるためには何が必要か、というのは恐るべき難問です。もしかすると誰にも答えが出せないのかもしれませんが、しかし、そういう難問が切実に存在する、ということに向けられる注意が少しでも増えたなら、いくらかの足しにはなるのではないかと、私は期待しています。
高橋和夫の3冊
2021.11.23
左から、アラブとイスラエル(ISBN 4-06-149085-0)、イスラム国の野望(ISBN 978-4-344-98370-0)
すでに何度か紹介している高橋先生の著書です。
左は1992年の初版で少し古い本ですが、97年の第5刷で少し修正された後のものです。パレスチナ問題を中心とした中東情勢の基礎知識を、惚れ惚れするような手際で解説しています。この著者は「複雑な話から本当に必要な骨組みの情報だけ取り出して説明する」ことに驚くべき才能を発揮する人ですが、この本のとくに第一章では、その手腕が存分に発揮されており、よくできた文学作品を読んでいるときに似た感動さえ誘います。内容が古くなってもその価値は衰えず、むしろ歴史的著述として遺すべき名著でしょう。
右は2015年初版で、入門向けのとても「やさしい」本です。左の本より字も大きくなりましたし、あとがきに
中東から世界が崩れる(ISBN 978-4-14-088490-4)
恐ろしげなタイトルですが、内容にはどことなく希望的な雰囲気があります。中東を語っているときの高橋和夫は、抜群の冴えと切れ味を発揮しますが、アメリカを語りだすと、どこか「私情」を抑え切れないようなところが見え隠れします。後知恵で意地悪な言い方をしてしまえば、この本が出版された2016年なかば、当時のドナルド・トランプ候補が大統領になる少し前には、その感情が「期待」の側に少し振れていて、中東をテーマにしているはずのこの本にも、いくらか流れ込んだのかもしれません。
私の邪推はさておき、この本では「基盤(インフラ)」とくに「知的インフラ」の重要性が繰り返し強調されています。一面的には
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トルコと中東の本
放送大学の授業と印刷教材
すでに何度か紹介している高橋先生の著書です。
左は1992年の初版で少し古い本ですが、97年の第5刷で少し修正された後のものです。パレスチナ問題を中心とした中東情勢の基礎知識を、惚れ惚れするような手際で解説しています。この著者は「複雑な話から本当に必要な骨組みの情報だけ取り出して説明する」ことに驚くべき才能を発揮する人ですが、この本のとくに第一章では、その手腕が存分に発揮されており、よくできた文学作品を読んでいるときに似た感動さえ誘います。内容が古くなってもその価値は衰えず、むしろ歴史的著述として遺すべき名著でしょう。
右は2015年初版で、入門向けのとても「やさしい」本です。左の本より字も大きくなりましたし、あとがきに
「わかりやすく、もっとわかりやすく、さらにもっとわかりやすく」が本書を貫くモットーです。とあるその通りに、どこまでも噛み砕いた親切な解説ばかりです。しかしただ一点、読者に「考える努力を放棄してもいいよ」とささやくような「やさしさ」だけは持ち合わせていない本です。高校生にも十分読める、読めて欲しい内容ですが、もしそれが叶わないなら、まずは大人にこういう本を読んで欲しい、と願わずにいられません。
中東から世界が崩れる(ISBN 978-4-14-088490-4)
恐ろしげなタイトルですが、内容にはどことなく希望的な雰囲気があります。中東を語っているときの高橋和夫は、抜群の冴えと切れ味を発揮しますが、アメリカを語りだすと、どこか「私情」を抑え切れないようなところが見え隠れします。後知恵で意地悪な言い方をしてしまえば、この本が出版された2016年なかば、当時のドナルド・トランプ候補が大統領になる少し前には、その感情が「期待」の側に少し振れていて、中東をテーマにしているはずのこの本にも、いくらか流れ込んだのかもしれません。
私の邪推はさておき、この本では「基盤(インフラ)」とくに「知的インフラ」の重要性が繰り返し強調されています。一面的には
研究者が食べていけるような環境をつくらなければ、いざという時に中東の諸問題を分析する人員が不足する。ということでしょうが、枝葉ではなく根や幹を見れば結局、世の中の人ひとりひとりの「興味」「関心」「知る努力」の質と量にかかっているように思えます。
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トルコと中東の本
放送大学の授業と印刷教材
世の中の動きはどのくらい速くなっているか
2021.11.11
5年、50年、500年、5000年、5万年、50万年、500万年前のおもな出来事をまとめてみました。パブリックドメインで公開します。
500万年前から5年前までの年表
変化が加速すると「変えなくてはならないこと」と「変えてはいけないこと」の両方が、どんどん増えていきます。そのことを実感する助けになればと思います。
500万年前から5年前までの年表
変化が加速すると「変えなくてはならないこと」と「変えてはいけないこと」の両方が、どんどん増えていきます。そのことを実感する助けになればと思います。
ポーターの3冊
2021.11.09
左から、少女パレアナ(村岡訳)(ISBN4 04-221201-8)、パレアナの青春(村岡訳)(ISBN4 04-221202-6)
何度も訳されている本なので邦題も「パレアナ」「パレアナ物語」「少女パレアナ」「しあわせなポリアンナ」「少女ポリアンナ」など複数あります。表紙はフジテレビがアニメ化したときのシーンらしく、登場人物の年齢設定等が原作と食い違っているそうです。
これは大人が「主役」になって子供に読み聞かせる本です。大人が一人で読んでも、その魅力は半分も楽しめないでしょう。ちょうど前回触れたように、ひとつの出来事でも、見る人によって「意味」や「解釈」が異なります。子供から見たこの物語と、大人から見たこの物語は、大きく違っているはずです。そのギャップを相手に大人が悪戦苦闘をする、というのがこの本の醍醐味でしょう。児童文学として冷静に評価を下してしまえば、わざとらしさと安易な成功談が目に付いて、よくできた物語ではありませんが、子供と向き合うにはまず自分が努力しなければならない、ということを大人に教えてくれる本です。
写真の本はどちらも、昭和三十七年(1962年)初版の昭和六十一年(1986年)改版で、表現もかなり古いものです。たとえばパレアナの最初の台詞にしても、
右の本は続編で、最初の話にあった文学作品としての欠点を、おそらく著者が反省をして、あれこれと建て直しをしたような印象です。この著者にとってパレアナは、出版されたものだけでも6作目の小説らしいのですが、面白いことに書き振りがどんどん上達していきます。続編の最後などは、シェイクスピア風のありきたりな筋ではありますが、巧みです。こちらは子供に読み聞かせるのにはちょっと無理がありそうなので、最初の本を読み聞かせてもらった子供が自分で本を読めるようになった頃に、あの本には続きがあったんだよと紹介してみるのがよいでしょうか。この2冊と似た「ゲーム」のモチーフが、イタリアの映画La vita è bella(ライフ・イズ・ビューティフル)に出てきますが、関連があるのかどうかわかりませんでした。
スウ姉さん(村岡訳)(ISBN 978-4-309-46395-7)
訳者の村岡さんはあとがきに「出世作である『パレアナ』よりこの『スウ姉さん』のほうに数倍も強く心を惹かれました」と書いています。パレアナのときは著者の欠点に見えた強引さを残しつつ、しかし見事に書き上げられた物語です。初めてこの本を読み終えたばかりの人に言っても、すぐには納得してもらえないかもしれませんが、私が注意して欲しいのは、
-余談-
ヨーロッパでは長い間、読み書きができる父親は、子供に本を読み聞かせるのが重要な仕事だったそうです。パレアナが書かれた1913年当時、アメリカでも音読の伝統が廃れつつありましたが、子供相手の朗読は、現代日本人が考えるよりもずっと身近なものだったに違いありません。学術的な分析については下の外部リンクを参照してください。
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-参考外部リンク-
Pollyanna by Eleanor H. Porter@gutenberg
Pollyanna by Eleanor H. Porter(朗読)@gutenberg
Pollyanna Grows Up by Eleanor H. Porter@gutenberg
朗読の神話学@東北大学機関リポジトリTOUR
何度も訳されている本なので邦題も「パレアナ」「パレアナ物語」「少女パレアナ」「しあわせなポリアンナ」「少女ポリアンナ」など複数あります。表紙はフジテレビがアニメ化したときのシーンらしく、登場人物の年齢設定等が原作と食い違っているそうです。
これは大人が「主役」になって子供に読み聞かせる本です。大人が一人で読んでも、その魅力は半分も楽しめないでしょう。ちょうど前回触れたように、ひとつの出来事でも、見る人によって「意味」や「解釈」が異なります。子供から見たこの物語と、大人から見たこの物語は、大きく違っているはずです。そのギャップを相手に大人が悪戦苦闘をする、というのがこの本の醍醐味でしょう。児童文学として冷静に評価を下してしまえば、わざとらしさと安易な成功談が目に付いて、よくできた物語ではありませんが、子供と向き合うにはまず自分が努力しなければならない、ということを大人に教えてくれる本です。
写真の本はどちらも、昭和三十七年(1962年)初版の昭和六十一年(1986年)改版で、表現もかなり古いものです。たとえばパレアナの最初の台詞にしても、
「ああうれしい、おめにかかれてうれしい、うれしくてたまりませんわ。あたしはパレアナです。お迎えにきてくだすってうれしいわ。きてくださるだろうとは思っていましたが」といきなり強烈です。これを声に出して読むのは、大人にとってかなり骨が折れそうですが、しかしこの古風な、今となってはどこか浮世離れした日本語は、物語の調子によく合います。というのは、この話の舞台が現代日本とはかなり違っているからです。見知らぬ世界のお話が風変わりな日本語で語られるのを、子供が喜ぶか恐れるかわかりませんが、きっとよい経験にはなるでしょう。
右の本は続編で、最初の話にあった文学作品としての欠点を、おそらく著者が反省をして、あれこれと建て直しをしたような印象です。この著者にとってパレアナは、出版されたものだけでも6作目の小説らしいのですが、面白いことに書き振りがどんどん上達していきます。続編の最後などは、シェイクスピア風のありきたりな筋ではありますが、巧みです。こちらは子供に読み聞かせるのにはちょっと無理がありそうなので、最初の本を読み聞かせてもらった子供が自分で本を読めるようになった頃に、あの本には続きがあったんだよと紹介してみるのがよいでしょうか。この2冊と似た「ゲーム」のモチーフが、イタリアの映画La vita è bella(ライフ・イズ・ビューティフル)に出てきますが、関連があるのかどうかわかりませんでした。
スウ姉さん(村岡訳)(ISBN 978-4-309-46395-7)
訳者の村岡さんはあとがきに「出世作である『パレアナ』よりこの『スウ姉さん』のほうに数倍も強く心を惹かれました」と書いています。パレアナのときは著者の欠点に見えた強引さを残しつつ、しかし見事に書き上げられた物語です。初めてこの本を読み終えたばかりの人に言っても、すぐには納得してもらえないかもしれませんが、私が注意して欲しいのは、
スウ姉さんの視点を離れてその人だけ見たとき「ゴルドン(メイでも構いません)がどんなに立派な人物か」ということです。このことに気付いて読み返せば、物語の空気がガラリと変わるでしょう。まだ読んでいない読者のために一応、白文字で書いておきましたので、上の隙間を選択して色を反転させて読んでください。対象年齢がまた少し上がっていますが、高校生なら十分読めるでしょう。もちろん大人が読んでも楽しめます。
-余談-
ヨーロッパでは長い間、読み書きができる父親は、子供に本を読み聞かせるのが重要な仕事だったそうです。パレアナが書かれた1913年当時、アメリカでも音読の伝統が廃れつつありましたが、子供相手の朗読は、現代日本人が考えるよりもずっと身近なものだったに違いありません。学術的な分析については下の外部リンクを参照してください。
-関連記事-
図書貸出のお知らせ
-参考外部リンク-
Pollyanna by Eleanor H. Porter@gutenberg
Pollyanna by Eleanor H. Porter(朗読)@gutenberg
Pollyanna Grows Up by Eleanor H. Porter@gutenberg
朗読の神話学@東北大学機関リポジトリTOUR
読書感想文は怖くない 後編
2021.11.04
前編からの続きです。
たとえば物語を読むとき、小さな子供は登場人物と自分を区別しないのが普通です。それどころか、3歳くらいまでの子供だと、見聞きしたことが「誰の」経験かという発想自体が希薄です。専門的な説明は下の外部リンクに譲りますが、発達心理学では「心の理論」と呼ばれます。私の考えでは、この受け取り方は単に未熟なやり方ではなく、物語を読む上でたいへん重要です。物語のもっとも感動的な、美しい、あるいは恐ろしい場面を読むとき、私たちはそれが誰の経験であるかを忘れます。文学作品を鑑賞するときには欠かせない受け取り方ですが、ここでは、私たちの中にそういう混同の性質があるということだけ確認しておきましょう。出発点が「混同」であったからには、年齢相応の読み方というのは「区別」の度合いによると考えるのが自然です。
区別をアピールするいちばん初歩的な方法は「自分なら」という表現を使うことです。物語を読んで「自分なら~~」と言えるということは、自分と登場人物は別人だと意識している、区別ができているということを示します。さらに、では登場人物と自分はどこが違うのか、なぜ違うのか、いつでも違うのか、ということに注意して読んだ、とアピールします。もしできれば「自分なら」だけでなく他の人、たとえば「弟なら」「おばあちゃんなら」「別の登場人物なら」と置き換える相手を変えてみるとか、置き換える方向を変えて「この登場人物が自分なら」としてみるとか、そういう工夫があるともっとよいでしょう。区別とは反対に、どこが同じかに注目するのも有効です。この登場人物のこういうところは誰々と似ている、この行動は(場面は違うけれど)実生活のこういう行動と同じだ、といったことに注目します。
小学校の読書感想文なら、上に挙げたくらいで満点近いアピールになるでしょうが、中学生の場合はもうひと頑張り欲しいところです。どこで頑張るのかというと、より多くの情報を「書いてあることの中から」引き出すという点です。よくある誤解で「登場人物の気持ちを答えなさい」という質問を「予想の問題」だと思い違いしている生徒がいますが、そうではなく、行動の理由や解釈に関わることが別の場所に書いてあるから、それを探して答えなさいという趣旨の質問です。「書いてあることと書いていないことの区別」と言い換えてもよいでしょう。つまり、他の所にこう書いてあったからこの登場人物はこう考えているのだとわかる、という話と、どこにも書いてはいないけれど自分はこうだろうと思った、という話の区別をはっきり示すことが大切です。もしできれば「この本が書かれた頃にこういう事情があったから」「この本が書かれた国にこういう習慣があったから」など、書いてあることでも自分の判断でもなく別の勉強の成果から、何か付け足しができれば言うことがありません。
高校生になれば読書感想文が課題になることも減るでしょうが、課題文付きの小論文などでも考え方はそう変わりません。点数を取るために重要なのは「書き言葉を正しく使える」「課題文をちゃんと理解した」「それらをアピールしながら書ける」ということであって、書いた内容自体に点数がつくことはまずありません。もし物語を読む機会があったら、視点の切り替えを試してみるとよいでしょう。ひとつの出来事でも、見る人によって「意味」や「解釈」が異なります。この登場人物にとってはこういう出来事であったけれど、あの登場人物から見るとこういう出来事であっただろう、といった考え方ができることは、文学作品を読むときに有用なだけでなく、普通の生活の中でも重要な能力です。
-参考外部リンク-
心の理論@脳科学辞典
たとえば物語を読むとき、小さな子供は登場人物と自分を区別しないのが普通です。それどころか、3歳くらいまでの子供だと、見聞きしたことが「誰の」経験かという発想自体が希薄です。専門的な説明は下の外部リンクに譲りますが、発達心理学では「心の理論」と呼ばれます。私の考えでは、この受け取り方は単に未熟なやり方ではなく、物語を読む上でたいへん重要です。物語のもっとも感動的な、美しい、あるいは恐ろしい場面を読むとき、私たちはそれが誰の経験であるかを忘れます。文学作品を鑑賞するときには欠かせない受け取り方ですが、ここでは、私たちの中にそういう混同の性質があるということだけ確認しておきましょう。出発点が「混同」であったからには、年齢相応の読み方というのは「区別」の度合いによると考えるのが自然です。
区別をアピールするいちばん初歩的な方法は「自分なら」という表現を使うことです。物語を読んで「自分なら~~」と言えるということは、自分と登場人物は別人だと意識している、区別ができているということを示します。さらに、では登場人物と自分はどこが違うのか、なぜ違うのか、いつでも違うのか、ということに注意して読んだ、とアピールします。もしできれば「自分なら」だけでなく他の人、たとえば「弟なら」「おばあちゃんなら」「別の登場人物なら」と置き換える相手を変えてみるとか、置き換える方向を変えて「この登場人物が自分なら」としてみるとか、そういう工夫があるともっとよいでしょう。区別とは反対に、どこが同じかに注目するのも有効です。この登場人物のこういうところは誰々と似ている、この行動は(場面は違うけれど)実生活のこういう行動と同じだ、といったことに注目します。
小学校の読書感想文なら、上に挙げたくらいで満点近いアピールになるでしょうが、中学生の場合はもうひと頑張り欲しいところです。どこで頑張るのかというと、より多くの情報を「書いてあることの中から」引き出すという点です。よくある誤解で「登場人物の気持ちを答えなさい」という質問を「予想の問題」だと思い違いしている生徒がいますが、そうではなく、行動の理由や解釈に関わることが別の場所に書いてあるから、それを探して答えなさいという趣旨の質問です。「書いてあることと書いていないことの区別」と言い換えてもよいでしょう。つまり、他の所にこう書いてあったからこの登場人物はこう考えているのだとわかる、という話と、どこにも書いてはいないけれど自分はこうだろうと思った、という話の区別をはっきり示すことが大切です。もしできれば「この本が書かれた頃にこういう事情があったから」「この本が書かれた国にこういう習慣があったから」など、書いてあることでも自分の判断でもなく別の勉強の成果から、何か付け足しができれば言うことがありません。
高校生になれば読書感想文が課題になることも減るでしょうが、課題文付きの小論文などでも考え方はそう変わりません。点数を取るために重要なのは「書き言葉を正しく使える」「課題文をちゃんと理解した」「それらをアピールしながら書ける」ということであって、書いた内容自体に点数がつくことはまずありません。もし物語を読む機会があったら、視点の切り替えを試してみるとよいでしょう。ひとつの出来事でも、見る人によって「意味」や「解釈」が異なります。この登場人物にとってはこういう出来事であったけれど、あの登場人物から見るとこういう出来事であっただろう、といった考え方ができることは、文学作品を読むときに有用なだけでなく、普通の生活の中でも重要な能力です。
-参考外部リンク-
心の理論@脳科学辞典
読書感想文は怖くない 前編
2021.11.04
みんなが大嫌いな読書感想文ですが、仕組みさえわかっていれば恐れるようなものではありません。まず真っ先に知って欲しいのは「感想自体に点数を付けられるわけではない」ということです。感想に優劣があって「あなたの感想は何点」と評価を下すなどということは、いわゆる権威主義とか全体主義といった体制の国にはそういうことをしている所があるのかも知れませんが、普通の国の普通の教育機関がやるようなことではありません。だから「いい感想が書けないんじゃないか」という不安は最初から的外れなもので、捨ててしまってよいのです。
では何を評価するのかというと、まずは「提出する」ことです。これは当然のようですが、決められた日までに決められた形式で出すということは、誰でも簡単にできるほどやさしくはありません。残念ながら大学生になっても、提出物さえしっかり出していれば誰でも合格をもらえる授業で、単位を落とす人はいなくなりません。次に大切なのは「ちゃんと読んだ」かどうかです。もちろん家まで付いて行って読んでいる現場を確認するわけではないので、いかにも「ロクに読んでいない」感じの内容になっていなければそれで十分です。わざわざこの2つを書いたのは「最初のハードルは低い」のだということを、知って欲しいからです。
では読んで書いて出せばいいのかというと、それだけで「赤くない点数」をくれる先生もいるかもしれませんが、日本語の質に気をつけると、高い点数を取りやすくなります。中学生なら、習った漢字を正しく使って、意味が通じないところができないように注意して書けば、そこそこの評価はもらえるはずです。提出日よりも早めに書き上げて、1日以上寝かせてから見直しをすると、効率よく修正できます。高校生は「正しい書き言葉」が目標です。以前紹介したやさしく語る小論文くらいの内容を押さえておけば、困ることはないでしょう。
さてしかし、点数に結び付きにくいとはいっても、せっかく書くのだから中身もある方がいいに決まっています。ただし「本当に中身のある自分独自の意見」なんてものが必要だと考えてはいけません。修士論文(一般に大学院の2年生が卒業のために書く)にさえ、そんなものは求められません。では何が必要なのかというと、本を「読んでどう考えたのか」よりも先に、まずは「どう読んだのか」です。年齢相応の「読み方」というのがあって、それができていることをアピールすればよいのです。そのときに、何が「同じ」で何が「違う」か、どこが「似て」いてどこが「似ていない」か、という意識が大切になります。
後編に続きます。
では何を評価するのかというと、まずは「提出する」ことです。これは当然のようですが、決められた日までに決められた形式で出すということは、誰でも簡単にできるほどやさしくはありません。残念ながら大学生になっても、提出物さえしっかり出していれば誰でも合格をもらえる授業で、単位を落とす人はいなくなりません。次に大切なのは「ちゃんと読んだ」かどうかです。もちろん家まで付いて行って読んでいる現場を確認するわけではないので、いかにも「ロクに読んでいない」感じの内容になっていなければそれで十分です。わざわざこの2つを書いたのは「最初のハードルは低い」のだということを、知って欲しいからです。
では読んで書いて出せばいいのかというと、それだけで「赤くない点数」をくれる先生もいるかもしれませんが、日本語の質に気をつけると、高い点数を取りやすくなります。中学生なら、習った漢字を正しく使って、意味が通じないところができないように注意して書けば、そこそこの評価はもらえるはずです。提出日よりも早めに書き上げて、1日以上寝かせてから見直しをすると、効率よく修正できます。高校生は「正しい書き言葉」が目標です。以前紹介したやさしく語る小論文くらいの内容を押さえておけば、困ることはないでしょう。
さてしかし、点数に結び付きにくいとはいっても、せっかく書くのだから中身もある方がいいに決まっています。ただし「本当に中身のある自分独自の意見」なんてものが必要だと考えてはいけません。修士論文(一般に大学院の2年生が卒業のために書く)にさえ、そんなものは求められません。では何が必要なのかというと、本を「読んでどう考えたのか」よりも先に、まずは「どう読んだのか」です。年齢相応の「読み方」というのがあって、それができていることをアピールすればよいのです。そのときに、何が「同じ」で何が「違う」か、どこが「似て」いてどこが「似ていない」か、という意識が大切になります。
後編に続きます。