高校数学独習用の資料
2020.08.08
高校の数学は教育課程変更の影響を受けやすく、なかなか思い通りの順番で勉強することができません。そこで、学校の授業だけでは不足しがちになる教育課程範囲外の知識を補う資料を作りました。これもパブリックドメインで公開します。
行列と線型変換の大雑把な紹介
三角比とベクトルの知識が必要なので、学校の進み方に合わせて勉強している生徒であれば高校2年生以降が対象となります。4ページめのみ、複素平面の話題が出てくるので理系の生徒対象ということにしておきました。
原本ファイル
改変して別の教材を作る場合にご利用ください。OpenOffice系のエディタによる編集をおすすめします。
勉強の「順番」は効率に大きな影響を与えます。最近は数学でベクトルを習う前に理科で力学を習う学校が多いようですが、もしベクトルを最初の基本のところだけでも勉強した後に力学をやっていればどんなに楽だったか、と考えれば、順序良く学習することの大切さも実感できるのではないでしょうか。
以下は付録です。
中学生に数学を教えてみよう
原本ファイル
-参考外部リンク-
牛腸 徹先生による、高校生対象の講演の配布冊子
行列と線型変換の大雑把な紹介
三角比とベクトルの知識が必要なので、学校の進み方に合わせて勉強している生徒であれば高校2年生以降が対象となります。4ページめのみ、複素平面の話題が出てくるので理系の生徒対象ということにしておきました。
原本ファイル
改変して別の教材を作る場合にご利用ください。OpenOffice系のエディタによる編集をおすすめします。
勉強の「順番」は効率に大きな影響を与えます。最近は数学でベクトルを習う前に理科で力学を習う学校が多いようですが、もしベクトルを最初の基本のところだけでも勉強した後に力学をやっていればどんなに楽だったか、と考えれば、順序良く学習することの大切さも実感できるのではないでしょうか。
以下は付録です。
中学生に数学を教えてみよう
原本ファイル
-参考外部リンク-
牛腸 徹先生による、高校生対象の講演の配布冊子
キャッツ
2020.08.01
左から、英語版(ISBN 978-0-15-168656-8)、池田訳(ISBN 978-4-480-03137-2)、朗読(ISBN 978-0-571-27164-1)
いわゆる児童文学の紹介を続けていますが、いよいよ韻文が出てきました。ミュージカル「キャッツ」の原作として有名な詩集で、英語版は1982年のゴーリー挿絵、日本語訳は1940年のベントリー挿絵を掲載しています。
原著の英語はそう難しいものではなく、各出版社や書店の分類で「7~10歳向け」「8~12歳向け」「4~8歳向け」「14~16歳向け」とばらつきが大きいのは、詩としてしっかり読むなら中学生、たんに「お話」として読むなら小学生、大人が読み聞かせるなら就学前くらいが対象になる、と捉えておくのが妥当でしょう。朗読は明瞭かつ落ち着いた読み方で、聞き取りやすく模範的な発音です。
しかしネイティブでない人がこの本を自然に楽しむのは、日本人の場合高校までの英語教育で韻文をほとんど扱ってくれないハンデもあって、そう簡単ではありません。私自身、まず文字だけで(もちろん辞書を引きながら)読んで、朗読を聞きながら読んで、自分で声を出して読んで、くらいの手間はかけないと、さっぱり頭に入ってきません。だからこそ「自分は英語がちっともわかっていないな」ということを、誤魔化しがきかない形で再確認できます。
日本語訳はちょっと変わったスタイルで、原文を読むときの参考資料として使えるように配慮されています。脚注と後注が入り混じっていたり、レイアウトが改められていたりと変則的なところがあるものの、読者の手助けとしてありがたい構成です。
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図書貸出のお知らせ
-参考外部リンク-
1939年初版の自筆表紙@wikipediaEN
いわゆる児童文学の紹介を続けていますが、いよいよ韻文が出てきました。ミュージカル「キャッツ」の原作として有名な詩集で、英語版は1982年のゴーリー挿絵、日本語訳は1940年のベントリー挿絵を掲載しています。
原著の英語はそう難しいものではなく、各出版社や書店の分類で「7~10歳向け」「8~12歳向け」「4~8歳向け」「14~16歳向け」とばらつきが大きいのは、詩としてしっかり読むなら中学生、たんに「お話」として読むなら小学生、大人が読み聞かせるなら就学前くらいが対象になる、と捉えておくのが妥当でしょう。朗読は明瞭かつ落ち着いた読み方で、聞き取りやすく模範的な発音です。
しかしネイティブでない人がこの本を自然に楽しむのは、日本人の場合高校までの英語教育で韻文をほとんど扱ってくれないハンデもあって、そう簡単ではありません。私自身、まず文字だけで(もちろん辞書を引きながら)読んで、朗読を聞きながら読んで、自分で声を出して読んで、くらいの手間はかけないと、さっぱり頭に入ってきません。だからこそ「自分は英語がちっともわかっていないな」ということを、誤魔化しがきかない形で再確認できます。
日本語訳はちょっと変わったスタイルで、原文を読むときの参考資料として使えるように配慮されています。脚注と後注が入り混じっていたり、レイアウトが改められていたりと変則的なところがあるものの、読者の手助けとしてありがたい構成です。
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1939年初版の自筆表紙@wikipediaEN
実力テスト問題
2020.07.20
中高生向けのごく短い実力テストを、パブリックドメインで公開します。実施時期は中3の春休み(入学先の高校が決まった直後)が最適だと思いますが、英語以外は中1の生徒でも回答できる内容です。高校3年生であっても、頭の体操程度にやってみて損はないと思います。
問題(解答もこの用紙に書き込む)
どのように実施してももちろん構いませんし、ごく簡単な問題ばかりなので採点基準表のようなものも作っていませんが、問題作成時点では以下のような想定をしていました。
実施の注意点(先生向け)
もし高校1年生がこの問題が解けずに顔面蒼白で落ち込んでいたら、かなり優秀な生徒だといえます。その年代で「自分に力がついていないこと」を正しく理解できる生徒は多くありません。
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努力の基礎
問題(解答もこの用紙に書き込む)
どのように実施してももちろん構いませんし、ごく簡単な問題ばかりなので採点基準表のようなものも作っていませんが、問題作成時点では以下のような想定をしていました。
実施の注意点(先生向け)
もし高校1年生がこの問題が解けずに顔面蒼白で落ち込んでいたら、かなり優秀な生徒だといえます。その年代で「自分に力がついていないこと」を正しく理解できる生徒は多くありません。
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努力の基礎
ピノッキオの冒険
2020.07.19
左から、伊語版(ISBN 9798632367042)、Lucas英訳(ISBN 978-0-19-955398-3)、杉浦訳(ISBN 4-00-114077-2)
日本でも有名なイタリアの児童文学です。最初に断っておきたいのですが、この本は文学作品として見ると三流のものです。わざとらしく、おおげさで、説教臭い話が、作者のご都合通りに取って付けたような調子で続きます。ではなぜわざわざ紹介するのかというと、オックスフォード版の英訳が安価に入手できるからです。
たんに「オックスフォード大学出版が出している本」というだけなら、まなびやの蔵書でいうと「トムは真夜中の庭で」なんかもオックスフォードの本なのですが、このピノッキオの冒険にはそれなりの分量の注釈や参考資料がついていて、しかも内容はごく簡単なものなので「注のあるの本」の入門としてうってつけです。
文学部(とくに英文科)志望の生徒であれば、もう少し本格的な作品に挑戦してみるのも悪くないのかもしれませんが、この本が「文学作品としては不出来」であることにもうひとつのポイントがあります。というのは、大学で教わる「文学」が「社会学」の方面に引っ張られる現象が何十年も続いており、文学部で「研究対象」になるのはたいていこの手の本だからです。
たとえばこの本には「傷病を装うキツネとネコ」が登場します。当時問題になっていた「傷痍軍人を装う詐欺師」を意識していることが見え透いており、ここを取り上げて議論をするのは、かなり取り組みやすい課題であるだけでなく、現代の社会問題の理解を助ける有用な研究になり得ます。社会が福祉を提供するようになれば、それを詐取しようとする人が出てくるのは当然で、福祉の提供をやめない限り根本的な解決はできません。もちろん、時代が下って制度が整えばあからさまな例は減るでしょうが、現代にも似たような問題が、より複雑でわかりにくい形になって残っているはずです。
こういう議論がしたいとき、以前傑作として取り上げたオズの魔法使いのような作品は、抽象的な事柄を巧妙に描いている分、材料として扱いにくくい傾向があります。またピノッキオの冒険は、たとえ短慮浅慮があったとしても、当時の社会にあった問題を小手先で扱おうとはしておらず、だからこそ「三流」に踏みとどまって、読者にはそれなりの読書体験を、研究者には歯ごたえのある研究材料を提供することに成功しています。文学を学ぼうとする生徒には、そういった事情やバランスを体験する機会も貴重なものでしょう。
蛇足ながら、このle avventure di pinocchioは私が生まれて初めて買ったイタリア語の本で、中身はまったく読めません。本を本棚に並べるのが私の趣味なので、読めなくても別に構わないのですが、イタリア語を勉強したい人に利用していただけたら、ただ置物にするよりはずっと、本の価値も出るのかなと思います。
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図書貸出のお知らせ
オズの魔法使い
日本でも有名なイタリアの児童文学です。最初に断っておきたいのですが、この本は文学作品として見ると三流のものです。わざとらしく、おおげさで、説教臭い話が、作者のご都合通りに取って付けたような調子で続きます。ではなぜわざわざ紹介するのかというと、オックスフォード版の英訳が安価に入手できるからです。
たんに「オックスフォード大学出版が出している本」というだけなら、まなびやの蔵書でいうと「トムは真夜中の庭で」なんかもオックスフォードの本なのですが、このピノッキオの冒険にはそれなりの分量の注釈や参考資料がついていて、しかも内容はごく簡単なものなので「注のあるの本」の入門としてうってつけです。
文学部(とくに英文科)志望の生徒であれば、もう少し本格的な作品に挑戦してみるのも悪くないのかもしれませんが、この本が「文学作品としては不出来」であることにもうひとつのポイントがあります。というのは、大学で教わる「文学」が「社会学」の方面に引っ張られる現象が何十年も続いており、文学部で「研究対象」になるのはたいていこの手の本だからです。
たとえばこの本には「傷病を装うキツネとネコ」が登場します。当時問題になっていた「傷痍軍人を装う詐欺師」を意識していることが見え透いており、ここを取り上げて議論をするのは、かなり取り組みやすい課題であるだけでなく、現代の社会問題の理解を助ける有用な研究になり得ます。社会が福祉を提供するようになれば、それを詐取しようとする人が出てくるのは当然で、福祉の提供をやめない限り根本的な解決はできません。もちろん、時代が下って制度が整えばあからさまな例は減るでしょうが、現代にも似たような問題が、より複雑でわかりにくい形になって残っているはずです。
こういう議論がしたいとき、以前傑作として取り上げたオズの魔法使いのような作品は、抽象的な事柄を巧妙に描いている分、材料として扱いにくくい傾向があります。またピノッキオの冒険は、たとえ短慮浅慮があったとしても、当時の社会にあった問題を小手先で扱おうとはしておらず、だからこそ「三流」に踏みとどまって、読者にはそれなりの読書体験を、研究者には歯ごたえのある研究材料を提供することに成功しています。文学を学ぼうとする生徒には、そういった事情やバランスを体験する機会も貴重なものでしょう。
蛇足ながら、このle avventure di pinocchioは私が生まれて初めて買ったイタリア語の本で、中身はまったく読めません。本を本棚に並べるのが私の趣味なので、読めなくても別に構わないのですが、イタリア語を勉強したい人に利用していただけたら、ただ置物にするよりはずっと、本の価値も出るのかなと思います。
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オズの魔法使い
努力の基礎
2020.07.16
勉強に限らず、何かを学習して身に付けるということは、結局「自分を変化させる」ということです。だから「改められない人」は何をやっても伸びません。それ以上に「間違えられない人」はちっとも伸びません。どこを改めるべきなのか、自分で失敗せず他人に教わることができるというのは幻想です。
「勉強ができる、できない」に現在の成績は関係ありません。自力でどんどん間違えて、改めるべきところを探し、変化を積み重ねようという意識を持てたなら、それだけでもう「勉強ができる」状態にあると断言できます。ちょっと奇妙な言い方かもしれませんが、ここが原点、つまりプラスマイナスゼロの地点となり、そこから先は「悪い結果が出る前に変えなければならないところをいかに変えるか」「良い結果が出ないときに続けるべきことをいかに続けるか」という、努力の質の勝負になります。
勉強ができる状態を続けていくには、この「ゼロの地点」に到達するのがどれほど難しいか、マイナスの領域に引き込まれるのがどれほど簡単かを知らなければなりません。勉強ができない状態の例を挙げればわかりやすいでしょう。「間違えることを悪いことだと考えてしまう」「改めずに済ます方法をつい探してしまう」そのようなときにはマイナスの領域にいるのだと考えて間違いありません。つまり、自分を変化させることに行き詰った状態です。
もちろん、プラスの時期とマイナスの時期が交互にやってくるのは自然なことで、調子のいいときがいつまでも続くものではありません。しかし「勉強ができる、できない」が不安定なものであればこそ、そこに自分の意思で働きかけたり、また周囲の後押しを得たりすることで、いくらかは状態を変えられます。この感覚を自分のものにすることが「勉強ができる」ようになった第一の成果になります。
蛇足ながら、では応用力はどういうものかと考えると、目標を伴う努力のことでしょう。この段階に入ると、話は途端に複雑で難解になります。目標を設定し、何を身に付けなければならないか把握し、そのために利用できる環境や時間や費用を評価し、計画を立て、実践しながら修正していかなければなりません。正直に言いますが、どのように取り組むのが正解なのか、私もわかりません。しかし少なくとも、基礎力の堅牢さが応用力を支える要素になることだけは疑いようがありません。
現実には、万全の基礎力を固めてから応用に取り掛かれるのは、ごく一部の幸運な場合に限られます。困難な応用をなんとかこなしながら、基礎力も高めていかなければならないのは普通のことです。だからこそ、基礎に集中できる時間を大切にして、また目の前に切羽詰った課題があるときにも基礎を省みる余裕を持つことが、どうしても必要になります。
「勉強ができる、できない」に現在の成績は関係ありません。自力でどんどん間違えて、改めるべきところを探し、変化を積み重ねようという意識を持てたなら、それだけでもう「勉強ができる」状態にあると断言できます。ちょっと奇妙な言い方かもしれませんが、ここが原点、つまりプラスマイナスゼロの地点となり、そこから先は「悪い結果が出る前に変えなければならないところをいかに変えるか」「良い結果が出ないときに続けるべきことをいかに続けるか」という、努力の質の勝負になります。
勉強ができる状態を続けていくには、この「ゼロの地点」に到達するのがどれほど難しいか、マイナスの領域に引き込まれるのがどれほど簡単かを知らなければなりません。勉強ができない状態の例を挙げればわかりやすいでしょう。「間違えることを悪いことだと考えてしまう」「改めずに済ます方法をつい探してしまう」そのようなときにはマイナスの領域にいるのだと考えて間違いありません。つまり、自分を変化させることに行き詰った状態です。
もちろん、プラスの時期とマイナスの時期が交互にやってくるのは自然なことで、調子のいいときがいつまでも続くものではありません。しかし「勉強ができる、できない」が不安定なものであればこそ、そこに自分の意思で働きかけたり、また周囲の後押しを得たりすることで、いくらかは状態を変えられます。この感覚を自分のものにすることが「勉強ができる」ようになった第一の成果になります。
蛇足ながら、では応用力はどういうものかと考えると、目標を伴う努力のことでしょう。この段階に入ると、話は途端に複雑で難解になります。目標を設定し、何を身に付けなければならないか把握し、そのために利用できる環境や時間や費用を評価し、計画を立て、実践しながら修正していかなければなりません。正直に言いますが、どのように取り組むのが正解なのか、私もわかりません。しかし少なくとも、基礎力の堅牢さが応用力を支える要素になることだけは疑いようがありません。
現実には、万全の基礎力を固めてから応用に取り掛かれるのは、ごく一部の幸運な場合に限られます。困難な応用をなんとかこなしながら、基礎力も高めていかなければならないのは普通のことです。だからこそ、基礎に集中できる時間を大切にして、また目の前に切羽詰った課題があるときにも基礎を省みる余裕を持つことが、どうしても必要になります。